偉大な記憶力の物語感想

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この本はロシアの心理学者A.R.リルヤが、ある人並み外れた記憶力をもつ人物を観察し、その能力(例えば何百もの無意味な文字列を1年後、10年後に正確に再現できる!)が人間の人格や思考、想像、行動などにどのような影響を及ぼすかを記した記録である。  

被験者は、自分の記憶力について調べてもらうために訪ねてきた人物(この本ではシィーと呼ばれる)であり、当初新聞記者をしており、のちにその記憶力を生かした見世物を行うことになる。このシィーの記憶力に興味をもったリルヤは30年にわたり様々な試験をおこなって、その記憶力を調査した。この本はその記録を記したものである。  

この本の見所は、リルヤが調べていくうちに解ってくる、シィーの記憶力のメカニズムである。シィーは共感覚を利用して驚異的な記憶力を維持しているのだ。共感覚とは、たとえば文字を見た時に「臭い」を感じたり、音を聞いた時に「文字」や「色」を自動的に感じる、一部の人が持つ特殊な知覚現象のことをいう。普通の人は、文章を読む時に感じるのは目で見た文字の造形と、発音した時の音ぐらいだが、シィーの場合はそこに視覚的、嗅覚的、触覚的な共感覚がともなってくる。たとえば、彼が音を聞く時、色覚や味覚、視覚的な印象(水蒸気の雲、水煙、なめらかな線など)を感じ、文字や数字を見た時にも色覚や質感、あるいはいろいろな人が感じられたりする。 一般人では想像しがたい感覚である。彼は非常に現実感ある像を想像することができるため、長い文章を覚える時、文字から得られる共感覚を総動員して共感覚的なイメージを作り、それを頭のなかにある自分の故郷の道のイメージを並べて覚えるのである。  

よく我々も、何か暗記をする際には何かに関連づけて覚えることをしたりするが、シィーの場合には共感覚をともなった現実感をもった像を想像することで、無限とも呼べる記憶力を維持しているのである。  

記憶力が良いと聞くと、論理的な考察能力も高いのではと思ってしまうが、彼の場合、数字の並びの法則を見つけるのは得意ではなかった。見て全て覚えてしまうので、法則を見つける必要性や、欲求がわかないのか、あるいは情報が多すぎて一般人のように数字の並びとして認識できないのかもしれない。  

「驚異的な記憶力を持つ男」と聞くとなんとも羨ましく思えるが、弊害もある。それは忘れることが難しいことである。後年忘れようとするために様々な方法を試みるが、どれもうまくいかなかったようである。  

そして、もう一つはしばしば現実と想像の境界が不明瞭になることである。これは最初に記した記憶力と人格や思想への関与に関わってくるところだが、シィーの記憶に用いている現実感をもった像を生み出す記憶力が、時に現実と想像の境界を不明瞭にしてしまうのだ。夢から覚めた直後の夢現の状態に似たようなものだろうか。  

この本を読めば、これまで想像し得なかった、自分とは全く異質な感覚を持って暮らしている人がこの地球上にいることがわかる。事実は小説よりも奇なりとはいうが、これまで読んだどのSF小説の登場人物よりも不思議な能力をもった、実在した人物に焦点をあてたこの本をお薦めしたい。

偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活 (岩波現代文庫)

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