貧乏でも清貧でありたい

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私が産まれ落ちた家庭は辛い日々を虐げられる環境でした。父親は土木作業員をしており、日雇いのごとく雨の日は休み、風が強ければ休む。働きたく無い日も休み、日々、朝から夜までお酒を浴びては母親を殴る蹴るの毎日でした。

時には幼い私にさえ泣いてうるさいと言っては庭に投げます。いつもは母が私を抱き庇い、殴られていました。

毎晩父が酔っ払って帰ってくると母の声に従い布団の中に入り眠ったふりをするのですが、必ず母が酔っ払った父に殴られるのです。

大きな声で母を叩きのめす父、その泣き声と罵声を聞き恐さに震えながら布団の中で泣いている私、早く大人になって母を守ってあげるんだと子供心に誓いました。

そんな中で耐え切れ無くなった母は脱走を決意、近所の友人宅へ私らを連れ遊びに行きました。

そろそろ帰ると言う母の言う事を聞かず私は友人宅の子供達と遊びたいから泊まると言い、友人宅の母親もうちは良いから泊まっていきとの事、切なる声で私に良いからと帰りを促す母、友人にも事情を隠していたから言えないので必至で呼ぶ母を尻目に泊まる決意をしてしまった私。

次の日、母は姉を連れて家出していました。母の気持ちも知らずに泊まった事を後悔、泣きじゃくる私を友人宅の母親は、仕方無いので父方の実家に連れて行かれました。

両祖父母は優しく迎え入れてくれましたが、私の心は暗く苛立ちが募るばかりでした。

その後、意を決して母は迎えに来てくれました。祖父は寂しがってましたが人の心が解る人、無口な一言、解ったと、祖母は逆に置き去りにしたクセに今さらと怒り心頭、引き渡す訳にはいかんと大剣幕でしたが祖父が宥め事無きを得て母のもとで暮らす事が出来ました。

けれど父からの離婚してやる条件が、数百万も有る自分の借金を全て払う事でした。

母は理不尽な条件を承諾し、親子三人での母子家庭生活が始まりました。

貧困な上、お金も無い生活、最初は母子寮に入りました。

姉は保育所に行くにもスカートすら無い、母は隣部屋の住人の方から毛糸を分けてもらい一日でスカートを編み、姉は無事に保育所に行く事が出来ました。

当時は貧しさが最高潮で食べる物さえ無い、朝昼兼用で生卵を1個飲むだけで、夜は近所の方から戴いた漬物をオカズに茶碗一杯の粥を三人で分けて食べる日々。

母の知人の紹介で、とある長屋に引っ越し。共同トイレで今にも潰れそうな連棟長屋でしたが、母も水商売ですが仕事が見つかり、やっと安定した生活に、とはいえ貧困さは変わらず、ただただ食べる物と雨風凌げるだけの事なのですが以前に比べたら楽しい日々です。

毎日好きな袋麺が食べられるし、まれにスナックのお客様から戴きの食べ物を食べれます。

母は父との約束を守る為、昼は掃除婦の仕事、夜は水商売の掛け持ち生活、それを助けるべく小学1年の姉が飯炊きやラーメンを作ってくれていました。

地域の良く無い場所に在る長屋なので、まれに変わった人が勝手に入って来たり、ケガをした恐い人が駆け込んで来たりとの日常でしたが、やがて別れた父が金の無心に来るように成り、これでは駄目だと田舎に引っ越しを余儀無くされました。

それからも転々と引っ越し三昧、私が中学1年には7回も引っ越してました。

もうその頃には貧困さが何なのか解らず、うちは飯が喰えて住む場所が在るから中流生活者だと勘違いしていました。

皆も同じような生活だと思っていました。

中学を卒業し、当然、高校に行くお金等有りませんから、卒業式の夜に家計の事を考え住み込みで即就職しました。

少しでも母を労って上げたいと子供の時から思っていた気持ちが叶います。

それからは必死で働き、安い給料の半分を仕送りしていました。

私達親子は貧しいなりに、助けて戴いた方々の優しさで今日まで生きて来られました。

だからこそ、人に仇する事無く、困っている人がいたら手を貸して上げなさいが母の口癖です。

私は今も変わらず、貧しい立場の人間です、けど同じ貧乏でも清貧でありたいと願って生きています。

あの頃の貧しくて、けど笑いの絶えない我が家、働いて初めて食べた牛肉が、中学の時に一度だけ母が食べさせてくれた牛肉との違いに爆笑した頃、母のは、お金が足らず豚バラスライスだった事、今では大切な想い出です。亡き母親に有り難うと伝えたい。

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