母と行き違いで生まれてきてくれた息子に感謝

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母と行き違いで生まれてきてくれた息子に感謝

私は地方の市営団地で生まれました。
父は駅前にあった弁当屋さんで働き、母は専業主婦でした。
母は体が弱く、更年期に加えて糖尿病を患っており、通院しながら食事制限や治療薬を飲んで、家ではいつも寝ていた記憶しかありません。

また父は薄給だったので、私たち3人が市営団地に住むだけでギリギリの生活でした。
毎月月末から月初めの家賃や光熱費の支払時期になると、両親はお金のことで喧嘩ばかりしていて、家にいると惨めな気持ちになり辛かったのを覚えています。
こんな生活で幼少期を送って育ってきたので、とにかく私は、お金をかけないように迷惑を掛けない様に、言いたいことも言わずに大人に気を使いながら、ひたすら我慢する子供になりました。

その後、母親も少し体調がよくなってきたと思ったのですが、体調回復と同時に、若い頃の様な暴飲暴食が始まり、医者にも食事制限や治療薬を飲むように言われていても守らず、その結果、腎臓が機能しなくなり、週に2回の人工透析を受けることになってしまいました。

以降の母は、本当にワガママな自暴自棄な人になってしまい、口癖のように「もう私なんかいつ死んでもいい」とばかり言うようになり、その姿は惨めでした。
でもそんな母親の世話をするのは、私しかいなかったので、病院への送迎や付き添い等、一生懸命に介護しました。

そして、月日が流れ、私は高校で情報処理関連資格を取得して卒業後、地元でも大きな自動車部品メーカに中途採用枠で就職出来ました。
そこでは、たまたま寿退社で欠員になっていて、即戦力で人員を補充したかった様で、資格があると言うだけで即座に情報管理部門に配属されました。
もう貧乏だけは嫌だったので、そこで馬車馬のごとく真面目に働いて、このままこの会社で独身のまま人生も終わるのだろうと思っていました。
その時に、今の夫に出会いました。丁度、入社10年目、28歳の時でした。
私も段々、主任と言う名の各生産部門業務のまとめ役を担当するようになり、色々な部門に、苦手でしたが根回しをする任務が多くなりました。

その頃に出会った夫になる男性は5歳年上のエンジニアだったのですが、あまり愛想のいい人ではなかったので、第一印象は良くありませんでした。
でも何故か私がいつも伝票を技術部の夫の部門に受け取りに行くと、他の方とは違って、手を休めて私に一礼をして下さり、私が欲しい伝票を一緒に確認してくれて、親切な対応をしてくれる方でした。
その内に、最初は確かに夫は不愛想でしたが、低姿勢で威圧感がないのが落ち着きました。
よく話をするようになって、実はライバルメーカから来た技術者さんで、実家も近くだったから地元企業に転職して来たとのことでした。中途入社と言うことで、私と境遇が似ていて共感しあえました。

知り合って半年程度たったある日、いきなり夫の方から付き合っている人がいるのかとか聞いてきたので、チビデブで外見が悪い私に、そんなの居るわけないでしょと回答し、仕事が恋人と言う適当な回答をしていました。
すると、夫は真面目な顔で、結婚を前提にお付き合いして欲しと、いきなりプロポーズされてしまい、そんなことは人生初だったので大変戸惑うと共に、お恥ずかしながら本心はとても嬉しかったです。
そうして、お付き合いが始まり、半年たったころに、双方の家に1年後結婚する旨を伝えて婚約をしました。そこまでは順調でした。

しかしその後、私たちは早まってしまいました。妊娠してしまったのです。
そこから先は、もう忙しすぎて、まさに光陰矢の如し。のぞみが走るくらいにあっという間に過ぎて行きました。
お腹の中の子供は男の子でした。それを母に話すと、母は今まで見たこともないくらいの笑顔で、初孫にまんざらでもない様子でした。
ただ、私がお嫁に行ってしまうと、両親の中は完全に冷え切っていたので、母の面倒を誰が見るのかは不安が残りましたが、もう後にも先にもお嫁に行くしかない状況でした。

そして、翌年の3月に出産予定だった12月、私は夫の実家にお嫁に行きました。
市営のもうこれで実家で暮らすことがないのかと思うととても寂しくなりました。
そして、お嫁に行って間もなくのクリスマスの夜のことでした。
父から電話があり、お母さんが家で倒れていて、直ぐ救急車で市立病院の集中治療室に入ったから戻ってきて欲しいと言う連絡があり、実家に戻りました。

母は脳内出血を起こし、植物状態のなったままになり、もう2度と話すことはありませんでした。
私がいなくなったせいかもしれないと自責の念に陥りました。
でももうお腹の中に息子もいるし、泣いてばかりもいられません。
気持ちを強く持って、妊娠しながらも植物状態の母が元気になることを祈って、見守り続けました。
しかし、翌年の2月末に医師から告げられました。もう2度と回復はしないと言うことでした。
よって、ここで諦めて人工呼吸器を外すか、このまま植物状態で生かしておくのかと言う苦渋の選択でした。
誰も面倒が見れないのが分かっていたので、親戚一同で相談し、人工呼吸器を外すこととなりました。

もう一度、元気になって、話しが出来ると信じていたので、人工呼吸器を外した時は泣けて泣けて、大声で泣き続けました。
本当にこれで母とはお別れなんだと、号泣は止まりませんでした。
その後、母のお葬式を行うと共に、3月には息子の出産がありました。
息子は3500gの大きな子で、元気な泣き声と共に、誕生しました。
2月に亡くなった母親は、この子を待ちわびていたので、心の中で、「お母さん、初孫が誕生したよ!」って報告しました。
まさに、母と入れ違いで誕生した元気な息子を、母に見せてあげたかったです。
その子も今では立派な高校生になっています。
これからも天国で見守っていてください。

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