日本はG7で先進国であり、発展途上国にも多くの支援を行う豊かな国であり、私もその日本国で生まれた日本人であるはずなのに、少なくとも生まれた時から就職するまで、私はずっと貧乏でした。いくら日本が先進国であっても、実際には私の生まれた貧困層は必ず一定数あるはずだと体験上いつまでも感じています。
そんな私も定時高校卒業後に手に職を付けて就職し、一人前に稼いで家計を支える様になり、もうあの頃のことは忘れかけていましたが、今でも思い返すと、やっぱり貧乏は嫌だなとつくづく思います。それでもあの苦痛をいつまでも忘れずに今の生活の糧に出来るよう、私の貧乏生活体験をご紹介していきたいと思います。
私の実家は地方都市の市営団地でした。父親は中学卒業してからずっと駅前の弁当屋で働いていました。母親は身体が弱く時々寝込んでは専業主婦をしておりました。父親の会社は給与が低い上に滞納が常態化していて、そんな時はいつも家計が火の車のため、私の両親はお金のことで喧嘩ばかりしていました。そんな貧乏生活で味わったのが、以下の通りです。
最初に学校の給食費ですが、当然ながらお金がないので払えなくなり、市に相談すると滞納や免除の対象になります。又、市から生活に必要な靴や服を支給してもらえるチケットを発行してもらえます。その支給品は私の靴や服になりました。きっとこれのおかげで、私の家の家計はとても助かったと思います。でもこのことは後々私の中でトラウマになります。この時に支給された白い運動靴は、その地域では貧乏層の象徴で、その靴のことを皆んな良い子ちゃんシューズと呼んでいました。
それでもまだ低学年の頃は我慢していました。でも高学年になると段々と資本主義の負け組と言うか何だかとっても情けなくなり、もう履かなくなりました。そしてそのことは、我が家は貧乏なんだと幼いながらに実感し、一生忘れられない出来事になりました。服も支給されましたが、自分で服を選べず、子供の頃に着た服には何故か古いキャンディキャンディとか母を訪ねて三千里のマルコなどの昔のアニメの絵が書いてある服を着ていました。そんな環境だったので、私はそれらの絵を見ると貧乏だった子供の頃を思い出し嫌いになりました。
その他にもお金がないので、朝は支給されたビスケットや買い溜めした安いヌードルだけだったりしました。いずれにせよ、極貧層の生活は体験者にしか分かりません。最悪、身体を悪くして働けなくなり生活保護を受けた方がマシな場合もあります。
最後に、低学年で同級生から靴を見て言われた「あっ良い子ちゃんだ!」の言葉は一生忘れません。