今回は、私が目撃した驚くべき節約術を駆使する親族についてお話ししたいと思います。
それは、私の父方の従姉妹の披露宴での出来事です。
私と母は、父方の親戚の女性陣と同じテーブルでした。
披露宴は和やかに行われ、笑いや涙に包まれた素晴らしい時間でした。
そんな幸せと穏やかな気持ちが一気に消え去る出来事が起こったのは、披露宴も終わりに近づいた時でした。
同じテーブルの面々が示し合わせたように、タッパーやビニール袋を取り出し、テーブルの上の料理の残りを詰め始めたのです。
私と母は目を合わせ、あまりのことに驚愕し、言葉も出ない状況でした。
そんな私たちをよそにおばさま方は黙々と料理を詰めていきます。
ひとしきり詰めた後、おばさまの1人が「あら〜、まだ入るわね〜。他のテーブルにも残ってないかしら〜。」と言葉を発したのです。
私は頭のなかで「え、ウソ。やめてやめて〜!」叫んでしまいました。
さすがにおばさま方も他のテーブルには、料理を詰めには行きませんでしたが、今にも立ちあがりそうな勢いに私と母はヒヤヒヤものでした。
披露宴が終わり、おばさま方は料理を詰め終わりご満悦のようでした。
「これで、夕食のおかずを作らなくて済むわ〜。助かる助かる〜。」と大きな声で話すため、みっともないやら、恥ずかしいやらで私と母は今すぐここを離れたい気持ちでいっぱいでした。
やっとの思いで父の車に乗り込んだ途端、私と母は咳を切ったように「あ〜、恥ずかしい。恥ずかし過ぎる!」と父に対して話し始めたことを今でも覚えています。
要約すると、もはやあれは節約ではなくただのドケチだ、間違いないと言ったような会話だったように思います。
どんなことが恥ずかしいことかとか、みっともないことだと言う意識が私たちとは感覚がまるで違うのです。
父にとっては親しい親族であるため、私たちの話はあまりおもしろくはないようでしたが、さすがにそれはやり過ぎだと言っていたことを覚えています。
タッパーやビニール袋にゴチャゴチャになった料理の残りを夜に食べるのかと思うと、なんだか哀れになってしまった私なのでした。
節約と言う名のドケチは、体の隅から隅まで、骨の髄まで染みついているのだと改めて実感した出来事でもありました。
同時に自分の常識や良識が世間で全て通用するわけではないことも、同時に学んだ出来事でもありました。
最後に、ドケチのおばさま方も決して悪い人ではなく、明るく人の良い人たちであることをつけ加えたいと思います。