同級生の家に電話を借りに行った思い出

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同級生の家に電話を借りに行った思い出

まだ高校生の時の話です。自宅に一人いた時のことでしたが「こんにちは 東北電力ですが」と玄関のガラス戸を開けると同時に男性の声がしました。

はいと答えて玄関に出ますと「電気料金が支払いされていませんので電気を止めにきました。」との事でした。

「ええ」と私は おどろきました。母も仕事で外出先におり「電話連絡しますのでまってください」とお願いしました。

当時(1965年頃)自宅に電話など有るはずもなく近所の100メータくらい先にある友達の家に走りました。

同級生の男子のお父さんが警察勤務で自宅に黒電話がありました。

緊急の時に使用してたことは知ってました、が、自分が使う事などないものと思っていました。

東北の漁師町の山を切り開いた公営住宅、当時50所帯の6畳ふた間でトイレ有りふろは五衛門風呂の外風呂、父母と兄弟4人の6人家族でした。

私は我が家の家計などに気にも留めていませんでした。

兄は越境入学して高校を卒業後大学に進学していました。姉と私は市内の女子高生、弟は中学生でした。

当時父は私の高校の事務員として努めており、尋常高等小学校卒の臨時嘱託でしたので給料は安かったのでしょう。

母は若い頃務めていた保育園の保母として働いていました。父と母のめぐり合いは満州国でした。

父の兄弟が経営している本屋さんに満蒙開拓青少年義勇軍の保母として渡満していた母は28才で結婚しました。

よくその頃の話を父が宿直の時、こたつに足を入れて電気を消して母の話を聞いていました。

戦後の引き上げの当時の話です。私は、戦後内地で生まれました。

兄と姉は太原で生まれており外地ではそれなりの生活をしていたようですが、引き上げて開拓農民となる選択肢もあったそうですが、父母の郷里の岩手県に引き揚げてきたのでした。

【流れる 星は生きている】藤原ていさんの当時ベストセラーだった本が私の心に残る一冊です。(凄絶、残酷などの言葉では言い尽くせない。敗戦後、満洲からの引揚者たちが日本の地を踏むまでのノンフィクション。)

今では家電があり携帯があり電話連絡もすぐとれますよね。男子の家に電話をかけに行く私の心は恥ずかしく辛かったのを覚えています。

当時貧乏で電気が止められそうなくらい支払いが遅れていたのですね。またよくツケで食品も購入してました。

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